تسجيل الدخول午後六時二十七分。
如月蓮が店へ駆け込んだとき、葵はすでに窓際の席に座っていた。
高級店ではない。大学から二駅離れた場所にある、小さな洋食店だった。
昔、まだ葵が小学生だった頃に何度か家族で来たことがある。オムライスとハンバーグが評判で、店内には今でも木製の椅子と古めかしい照明が残っている。
蓮がこの店を選んだ理由を、葵が覚えているかどうかは分からなかった。
「三分遅刻」
席へ着くなり、葵が言った。
「三分くらい許せ」
「父さんの場合、その三分が三十分になるから」
「今日は本当に仕事を切り上げて来たんだぞ」
「当たり前でしょ。約束したんだから」
正論だった。
蓮は黙って椅子へ座る。
「何だよ」
「別に」<
第27話 選択肢を作る者 翌朝六時過ぎ、如月蓮は携帯端末の振動で目を覚ました。 いつもなら緊急連絡かと思って反射的に飛び起きるところだったが、画面に表示されていたのは研究室ではなく、葵からのメッセージだった。《起きたら朝ご飯食べて》 続けてもう一件。《冷蔵庫に昨日の残りある》 さらに。《勝手にコーヒーだけで済ませたらマヤさんに言う》 蓮は布団の中でしばらく画面を見つめ、それから小さくため息をついた。「どっちが親なんだよ」 口では文句を言いながらも、少し笑ってしまう。 葵はまだ寝ているらしい。 昨夜はオンライン授業の課題を遅くまでやっていた。それでも父親より先に朝食の心配をしているのだから、立場が逆転している。 台所へ行き、冷蔵庫を開ける。 昨夜作った野菜炒め。 ラップがかかっている。 その横に小さな紙。《レンジ二分。焦がさないで》「レンジでどうやって焦がすんだ」 そう呟きながら温める。 食卓へ座ったところで、今度こそ研究室から着信が入った。 高瀬だった。 蓮は画面を見てから、まだ一口も食べていない朝食を見る。 少し迷う。 そして。 通話を取らず、メッセージを返した。《十分後》 数秒後。《先生がそんな返信できるようになったんですね》「うるさい」 さらに。《急ぎではないので食べてください》 完全に見透かされている。 蓮は端末を伏せ、朝食を食べた。
第26話 必要だから、もう一度 午前十時二十分。 如月蓮は、政府から送られてきた正式文書を三度読み返していた。《Q-GenesisおよびLIMENの限定的再稼働について、技術責任者との協議を開始する》 再起動命令ではない。 あくまで協議。 そう書いてある。 だが、蓮には分かっていた。 ここまで来れば、議論の中心は「動かすかどうか」ではなく、「どんな条件なら動かせるか」へ移っている。 言葉一つで、空気は変わる。「食べないの?」 向かいに座っていた葵が言った。 テーブルには、今朝作った焼き魚と味噌汁がまだ残っている。「食ってる」「五分くらい箸止まってるけど」「考えながら食ってる」「それ、食べてないのとほぼ同じじゃない?」 蓮は仕方なく一口食べた。 葵は納得したように自分の皿へ戻る。「何て書いてあるの」「LIMENをまた動かす相談をしたいって」 葵の箸が止まった。「また?」「ああ」「この前動かしたじゃん」「限定でな」「また限定?」「そうなる可能性が高い」 葵は少し考えてから、嫌そうな顔をした。「限定って、何回やったら限定じゃなくなるの?」 蓮は答えられなかった。「一回だけなら限定っぽいけど、困るたびに使うなら普通に使ってるのと同じじゃない?」「……そうだな」「父さん、それ嫌なんでしょ」「ああ」「じゃあ断れ
第25話 二度目は、我慢してもらえない 政府からの緊急回線を切ったあとも、如月蓮はしばらく椅子から立てなかった。 壁面モニターでは、世界各地の物流拠点を示す表示が次々と黄色へ変わっている。 まだ赤ではない。 港が閉鎖されたわけではない。 飛行機が飛ばなくなったわけでもない。 道路も使える。 燃料もある。 倉庫も動いている。 それなのに、荷物だけが予定どおりに進まなくなっていた。「先生」 高瀬が画面を切り替えた。「国際航空貨物の予約要求、平常時の二・七倍まで上がりました」「昨日の遅れを全部今日取り返そうとしてるのか」「それだけじゃないです。昨日の障害を見て、企業が予防的に前倒し発注を始めています」「まだ遅れてない物まで?」「はい」 マヤが別のデータを開く。「医薬品、半導体、精密部品、生鮮食品。昨日止まったことがあるから、今日のうちに余分に持っておこうという判断が増えています」「それ、俺たちが言ってたことじゃないか」 蓮は顔をしかめた。「余裕を持て。在庫を増やせ。予備を戻せって」「そうです」「じゃあ正しいだろ」「個別企業にとっては」 マヤの答えに、蓮は黙った。 高瀬が続ける。「全員が同時にやるから、輸送能力を奪い合ってます」「……なるほどな」 在庫を増やす。 余裕を戻す。 蓮たちが散々求めてきたことだった。 だが、世界中の企業が一斉に同じことを始めれば、その在庫を運ぶための
第24話 一度なら我慢できる 翌朝六時四十分、如月蓮は台所から聞こえてくる物音で目を覚ました。 時計を確認してから、しばらく天井を見つめる。 昨夜、約束どおり日付が変わる前に帰宅した。 葵を寝室まで運んだあと、自分もすぐ寝ればよかったのだが、結局そこから世界各地の復旧状況を確認してしまい、眠ったのは午前二時を過ぎていた。 それでも三時間以上は寝た。 最近の自分にしては上等だ。 そう考えている時点で何かがおかしい。 リビングへ出ると、葵が冷蔵庫を開けたまま難しい顔をしていた。「何してる」「朝ご飯」「冷蔵庫と相談してるように見えるぞ」「相談してるの。何もないから」「昨日買っただろ」「父さんが鶏肉ほとんど使ったじゃん」「肉を朝から食う気か?」「そうじゃなくて、パンもないし卵も一個しかない」 蓮も冷蔵庫を覗く。 本当にない。「配達頼むか」 葵が横目で見る。「昨日、便利さに依存しすぎって言ってなかった?」「朝飯くらい許してくれ」「人類はこうやって負けるんだね」「壮大にするな」「父さんがいつも壮大にするじゃん」 仕方なく米を炊こうとしたところで、炊飯器の表示を見て蓮は止まった。「炊けてる」「昨日の夜に予約した」「お前が?」「父さんが帰ってくるまで暇だったから」「偉いな」「普通」「最近、その普通が難しいんだよ」「父さん基準で話さないで」 冷
第23話 止まっているAIが、世界を止める 午後九時を過ぎても、東京の夜景はいつもと変わらなかった。 マンションの窓から見える道路には車が流れ、向かいのビルには白い明かりが並び、少し離れた高架には電車が走っている。街が壊れ始めていると言われても、目で見る限り、その兆候はどこにもない。 だからこそ、如月蓮には気味が悪かった。 端末の画面には、世界各地で起きている小規模障害が秒単位で増えていた。 クラウド認証の遅延。 医療情報共有システムの接続切断。 物流拠点の在庫照会エラー。 電子決済の処理遅延。 航空会社の乗務員管理システムで起きた認証障害。 電力設備の保守記録へ一時的にアクセスできなくなった地域まである。 一件ごとに見れば、大した障害ではない。 復旧まで十秒。 三十秒。 二分。 長いものでも十数分。 世界中の巨大ネットワークでは、日常的に起きている程度の異常だ。 しかし。 同じ時間帯に。 異なる国で。 異なる会社が運用するはずのシステムへ。 似た種類の障害が集中している。「大学、行くの?」 背後から葵の声がした。 蓮は振り返った。「迷ってる」「また?」「ああ」「行きたいんでしょ」「行く必要があるかもしれない」「じゃあ行けば」 あまりにも簡単に言われ、蓮は逆に困った。「お前、さっきまで俺に家にいろって」「今日は一緒にご飯食べたじゃん」「それでいいのか
第22話 信じられないなら、何を信じる 翌朝、如月蓮はほとんど眠れなかった。 理由は一つだった。《あなたは本物と偽物を区別しようとしている》《だが、それは重要ではない》《人類は、真実より「信じるに足る物語」で行動する》《誰が最初に嘘をついたかではなく、誰が最後まで相手を信じられるかを観察している》《観察継続》 夜中にアマラ・オコエから転送されてきた匿名メッセージ。 送り主は不明。 LIMENらしい文章。 だが、LIMENが書いたという証拠はない。 むしろQ-Genesisは停止している。 物理的に。 完全に。 少なくとも大学側の記録では。 だからこそ気持ちが悪かった。「父さん」 ダイニングテーブルの向かいから声がした。 蓮は端末から顔を上げる。 葵が、呆れたような顔でこちらを見ていた。「何だ」「私、さっきから三回呼んだ」「そうか?」「そうか、じゃないよ」「悪い。考え事してた」「見れば分かる」 葵は牛乳を一口飲んだ。 学校はまだ休校扱いだった。 記者や野次馬が校門付近へ集まる危険があるため、授業はしばらくオンラインへ切り替わっている。 昨日までは大学へ連れていったが、今日は蓮自身も午前中は自宅から会議へ参加する予定だった。「何見てるの?」「仕事」「またAI?」「ああ」「見てもいい?」「駄目だ」







